五稜郭はなぜ星型? 新選組副長の土方歳三が戦った箱館戦争
北海道にある五稜郭は星形要塞として有名です。日本にある要塞の中でも珍しい形をしており、観光地としても人気のスポットとなっています。また、四季折々で見られる景色は、いずれも美しいと評判です。
この記事では、五稜郭が星形になった経緯や五稜郭と関わりの深い土方歳三(ひじかた としぞう)について解説します。また、関連するスポットもご紹介していますので、訪れた際にはぜひ参考にしてみてください。
五稜郭について
五稜郭は、江戸時代末期に現在の北海道函館市に築城された日本初の西洋式城郭です。15世紀半ば以降にイタリアで初めて実践された星型要塞になります。五稜郭の「稜」とは「角(かど)」のことを指し、「5つの角がある城郭」という意味で、真上から見ると星形の形から「五稜郭」と命名されたそうです。
この項目では、誰が何のために星形の要塞を作ったのかを紹介します。
五稜郭を作った人物たち
五稜郭を建城するために、幕府は堀利煕(ほり としひろ)と竹内保徳(たけうち やすのり)を箱館奉行として現地へ派遣しました。そしてもう一人、五稜郭の建城に尽力を尽くしたのが武田斐三郎(たけだ あやさぶろう)でした。
当時20歳という若さながら、蘭学や兵学を学んでおり英語やフランス語、西洋の海防や砲台の築造、造船など豊富な知識を持っていました。武田斐三郎は様々な知識を活かし、中心となって五稜郭を設計・建築しました。
五稜郭が星形になった理由
銃や大砲を備えて考案されたもので、星形要塞は迎撃の死角がなく効率的に戦えるという点が評価され、五稜郭建設の際に採用されました。5方向に飛び出た角は、攻めてくる敵を見逃さないために有効な形でした。
本拠地には箱館奉行所があります。この箱館奉行所を敵から守るために、五稜郭は星形の要塞になっています。
「新選組の鬼副長」土方歳三
当時、新選組の「鬼の副長」として知られていた土方歳三。容姿端麗で剣術に優れた人物としても有名で、現在でもその男気溢れる人物像からたくさんの人に愛されています。激動の時代の中で、最後まで仲間を想い闘い続けた土方歳三についてご紹介します。
土方歳三はどんな人物だったの?
土方歳三は新選組の一員として有名です。新選組の副長として隊を率い、「鬼の副長」と恐れられていました。新選組の中で規律を乱す隊員は切腹させられることもあったそうです。
そんな土方歳三は農家に生まれ、10人兄弟の末っ子でした。幼いころに両親を亡くし、兄夫婦に育てられながら剣術を学びます。その中で、後の新選組局長となる近藤勇(こんどう いさみ)と出会うことになります。徳川幕府の直轄地であった多摩出身の近藤勇と土方歳三は、幕府への忠誠心がありました。意気投合した2人はともに、幕府のために尽力することになります。
土方歳三の功績
土方歳三は、京都を拠点に活動する新選組の副長として活躍します。当時の京都は討幕派の浪士たちの活動が活発で、暗殺などが横行し治安は最悪でした。そんな時代の中で新選組は、京都の治安をよくするために欠かせない存在となっていきます。
幼いころから剣術を学んでいた土方歳三はその実力をかわれ、新選組局長近藤勇の右腕として京都の治安維持に奔走します。
新選組の名を一躍有名にしたのが、「池田屋事件」です。京都を焼き討ちにしようと企む討幕派を襲撃。計画を止めたとして幕府から評価されます。これを指揮したのが土方歳三だと言われています。
戊辰戦争最後の「箱館戦争」
戊辰戦争(ぼしんせんそう)は、明治新政府と旧幕府軍の対立による戦いです。この戦いは、箱館戦争で旧幕府軍が敗北することによって終わりを告げます。
開国を進めたい明治新政府は反対する旧幕府と対立し、慶応4年(1868年)の鳥羽・伏見の戦いを皮切りに戊辰戦争が始まります。しかし旧幕府軍は明治新政府の攻勢に歯が立たず、敗戦は免れない状況でした。
諦めきれない旧幕府軍は北上し、蝦夷地(現在の北海道)にたどり着きます。ここで幕府の家臣であった榎本武明(えのもと たけあき)は、職を失った武士たちのために新たな政権を築こうとします。土方歳三も榎本軍に加わり明治新政府と戦います。
明治新政府は榎本軍の反政府の動きを拒否し、攻撃を仕掛けたことから始まったのが箱館戦争です。榎本軍は五稜郭を拠点に戦いますが、土方歳三も敵の銃弾によって絶命します。
2年に渡り全国で戦いが繰り広げられた戊辰戦争でしたが、土方歳三の死からほどなくして榎本軍は降伏し、戊辰戦争の幕は閉じることになります。
土方歳三の最期
土方歳三は、箱館戦争で明治新政府による箱館の総攻撃が始まった日に亡くなりました。新選組は京都を拠点にする部隊でしたが、最後の戦いは箱館となりました。土方歳三も最後は箱館で戦死することになります。
土方歳三は新選組局長近藤勇が江戸の流山で明治新政府に捕まり、処刑されたのちも戦いながら北上を続けました。土方歳三は仙台まで北上し、蝦夷地で明治新政府とは別政権の樹立を目指す榎本軍と合流します。
榎本軍は五稜郭を拠点に活動を続けますが、ついに明治新政府による総攻撃が始まります。土方歳三は明治新政府による攻撃で孤立した兵士たちの救出に向かう途中で敵の銃撃に合いました。
第一線で指揮を執っていた土方歳三の死によって、旧幕府軍の戦況は一気に崩れることに。
土方歳三の死については諸説ありますが、腹部に銃弾を受けて落馬したとされています。別の部隊が駆けつけたときには、すでに絶命していました。享年は盟友近藤勇と同じ35歳と言われております。
現在の五稜郭
五稜郭は「北海道遺産」や国の「特別史跡」に選ばれています。土方歳三の最期の地となり、新選組の想いもここで尽きることとなります。彼らの様々な想いが詰まった場所として、土方歳三や新選組のファンにとっては、一度は訪れてみたい場所です。
現在は観光スポットとしても人気で、多くの人々が訪れてます。五稜郭は外周が約1.8㎞あり、敷地の面積は東京ドーム3個分もある大きな要塞です。中には様々な歴史を感じられる建物などがあります。五稜郭やその周辺の観光スポットの見どころをご紹介しましょう。
箱館奉行所
箱館奉行所は五稜郭内にある、防衛や外交交渉の拠点となる役所として建てられました。箱館戦争によって被弾した箱館奉行所は解体されていましたが、昭和後期に調査、研究が進められ見事に復元されました。
当時の姿全てを復元できたわけではありませんが、職人たちによって忠実に再現されています。
名称 | 箱館奉行所 |
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住所 | 北海道函館市五稜郭町44番地(五稜郭公園内) |
電話番号 | 0138-51-2864 |
開館時間 | 4月~10月 9:00~18:00 |
11月~3月 9:00~17:00 | |
1月2日・3日 9:00~15:00 | |
休館日 | 12月31日~1月1日、その他臨時休館日あり |
料金 | 大人500円、子ども250円、未就学児無料 |
アクセス | 市電「五稜郭公園前」停から徒歩約20分 |
土方歳三最期の地碑(ちひ)
土方歳三が箱館戦争で銃弾を浴び、倒れた場所とされている一本木関門跡です。他に戦死したとされる場所には、鶴岡町(現在の大手町)や栄国橋(現在の十字街)があります。
一本木関門跡は函館市総合福祉センターの敷地内にあり、いつでも見学することができます。全国から訪れる新選組や土方歳三のファンによって手向けられた花がたくさんあります。
名称 | 土方歳三最期の地碑(ちひ) |
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住所 | 北海道函館市若松町33(函館市総合福祉センター「あいよる21」敷地内) |
電話番号 | 0138-23-5440(箱館観光案内所) |
アクセス | バス停「総合福祉センター裏」停から徒歩約5分、またはJR函館駅から徒歩約10分 |
五稜郭タワー
五稜郭タワーは高さが107mあり、五稜郭を上から見ることができます。五稜郭はソメイヨシノがたくさん植えられていて、春になるとお花見に訪れる人もいます。また、冬には雪が積もって真っ白になった五稜郭を眺めることもできます。四季折々で変わる五稜郭の表情を、五稜郭タワーの展望台から楽しみましょう。
展望台には土方歳三の座像があったり箱館戦争の歴史がわかる「五稜郭歴史回廊」があります。新選組グッズも手に入れることができ、新選組ファンは一度は訪れたい要チェックスポットです。
名称 | 五稜郭タワー |
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住所 | 北海道函館市五稜郭町43-9 |
電話番号 | 0138-51-4785 |
営業時間 | 4月~10月 8:00~19:00 |
10月~4月 9:00~18:00 | |
冬季 9:00~19:00、初日の出 6:00~19:00 | |
料金 | 一般900円、中・高校生680円、小学生450円 |
アクセス | 市電「五稜郭公園前」停から徒歩約20分 |
まとめ
日本でも数少ない星形をした五稜郭。五稜郭のきれいな星形は、戦いを有利に進めるための策が織り込まれた作りとなっていることが分かりました。また、幕末に作られた五稜郭には江戸幕府の想いが詰まっています。五稜郭やその周辺には、歴史を感じられる建物がたくさんあります。
ぜひ函館に行く際は五稜郭に足を運んでみてはいかがでしょうか。