今なお人気! 函館・摩周丸の歴史とツウな楽しみ方とは

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「摩周丸(ましゅうまる)」の名を、みなさんご存じでしょうか。

あまりぴんと来ないという方でも、「青函(せいかん)連絡船」と聞けば懐かしく思い出すかもしれません。一定以上の年齢の北海道民・青森県民にとっては、重要な交通手段のひとつでした

そんな青函連絡船のひとつであり、青函トンネル開通に伴って青函連絡船が廃止される最後の日まで就航していたのが「摩周丸」です。今は改修されて記念館となっている「摩周丸」のあれこれを調べてみました!

    この記事でわかること

  • 青函連絡船は鉄道車両を運ぶ船
  • 北海道と本州を結ぶ大動脈だった連絡船
  • 摩周丸の航行距離は地球100周分!
  • 「ブラタモリ」で紹介されて再注目!
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青函連絡船とは

青函連絡船

現在では北海道と青森は海底を走る「青函(せいかん)トンネル」によって結ばれていますが、このトンネルが開通する前は、青函連絡船が就航していました。

北海道から東北へ移動する場合、JR(当時は国鉄)で函館駅まで行き、函館駅から接続する青函連絡船に乗って青森駅へというのが一般的でした。

現在では青函連絡船は廃止され、自動車で津軽海峡を越えるには青函フェリーが利用されています。

青函フェリー 3号はやぶさ

青函連絡船の役割は乗客・車両・列車を運ぶこと

乗客、車両、列車を運ぶ船

航空機が今よりも(相対的に)高価だった時代に、北海道と本州を結ぶメインルートとして選択されていたのは青函連絡船です。一定以上の年齢の北海道民であれば、修学旅行などで寝台車と青函連絡船に乗ったという記憶があるかもしれませんね。

青函連絡船は、1908年、鉄道国有化直後の国鉄によって開設された鉄道連絡船です。

当時最新鋭の蒸気タービン船2隻から始まりましたが、この時代は北海道の開拓事業が本格化していた時期で、多くの開拓物資が本州から北海道へと運ばれました。また、北海道からも昆布やタマネギ、ジャガイモ、干魚など、たくさんの食料が本州に運ばれました。

青函連絡船

大正時代末期には、貨物を貨車ごと運ぶ車両航送が始まり、北海道と本州の物流に大きな変革をもたらしました。その後も、石炭や鉱石などのバラ積み貨物を除いて、本州と北海道との間の輸送を一手に引き受け、北海道、日本の発展に大きな役割を果たしました。

青函連絡船の大きな特徴は、船の中に線路が敷かれていることです。乗客だけではなく、貨物や車両を運ぶのが青函連絡船ですが、この線路があることにより、自動車だけではなく鉄道も車両ごと輸送できたのです。

貨物などは、貨車に積み込んだまま青函連絡船で運ばれ、運ばれた先からまた鉄道を走っていきました。乗客の場合はもちろん乗ったままではなく、函館駅・青森駅で一度降りて船に乗り換え、船が到着した先でまた鉄道へ乗り換えるシステムです。函館~青森間を1日におよそ8往復、片道4時間ほどで結んでいました。青函トンネルが開業した1988年に、その役目を終えています。

青函トンネルについて

青函トンネル

今では新幹線も通っている青函トンネルですが、古くは大正時代から構想があり、戦後すぐ、1946年には調査がスタートしています。

そして1954年、台風による青函連絡船「洞爺丸」沈没という世界的にも大きな海難事故をきっかけとして、計画は加速し、1961年には建設が始まりました。

海底部の掘削では幾度となく落盤や水没事故を繰り返し、難工事の連続でしたが、様々な技術開発や工事関係者の努力と奮闘の末、1983年に先進導坑、1985年には本坑が貫通し、1988年に津軽海峡線として開業しています。

摩周丸の歴史

摩周丸のいま

1908年に始まった青函連絡船は、開設当初から、その時代ごとの最新鋭の船が就航してきました。

北海道と本州を結ぶ大動脈、日本の高度経済成長期を支える物流の要として大きな役割を果たしてきたのです。現在、青函連絡船記念館となっている「摩周丸」はこのうちの1隻です。

今も残る摩周丸は2代目

高速自動化船として登場した津軽丸型連絡船「摩周丸」は、実は2代目です。

初代の摩周丸は戦後間もない1948年に就航した、洞爺丸型と言われる蒸気タービン船でした。1964年に引退した初代摩周丸の後を引き継ぐように、2代目の摩周丸が就航したのは1965年です。

今も残る摩周丸は2代目

主機関1万2800馬力のディーゼルエンジンを持ち、あらゆる部分で航行の自動化(コンピューター制御化)がはかられ、現代のGPSに相当する現在位置測定システムや衝突防止装置も搭載した、当時の最新型の船でした。

摩周丸の活躍

摩周丸は客室の下にある車両甲板にワム型貨車(15トン積み有蓋車)を48両積むことができました。

これは、東北本線の貨物列車1編成分に相当します。特別室や等級別の食堂、浴室も備えた豪華客船だった初代(洞爺丸型)に比べると簡素になりましたが、普通船室にも冷暖房装置がつき、ひとりあたりの占有面積も広くなり、全体的な居住性は向上しています。

1988年3月13日、青函トンネル開通とともに青函連絡船は幕を下ろします。

この日、摩周丸は第5便として15時に青森を出港、18時50分函館に無事着岸、これが最後の航海となりました。

2代目摩周丸は22年9か月の就航期間に3万5493回運航し、その航行距離は約400万キロメートル、地球100周に相当する距離です。

摩周丸のいま

青函連絡船廃止後、僚船はつぎつぎと売却されていきましたが、摩周丸は母港函館で保存されることになり、所有者・管理者の変遷を経て、現在は特定非営利活動法人「語りつぐ青函連絡船の会」が指定管理者となり、函館市青函連絡船記念館摩周丸として展示されています。

摩周丸のいま

八幡坂から見下ろす港に、白と青に塗り分けられた摩周丸が係留されている様子は、海や空の色とも調和し、美しい函館のシンボルのひとつとなっています。

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お店を一歩外に出れば、坂の下には澄んだ青空とベイエリア、そしてかつての青函連絡船・摩周丸がひとつの画のように広がっています。そんな素敵な景色のごとく、本商品はアロマを極限まで引き出した豊かな一杯に。酸味を程よく抑え、口にした時にすっきりとクリアな風味を感じられます。

タモリさんも夢中!? になった摩周丸

人気番組「ブラタモリ」ではタモリさんも摩周丸を訪れました。

運航当時のままの「操舵室(船橋)」ではレーダー情報処理装置に興味を持ち、操舵室そばの「無線通信室」ではモールス信号の打鍵を楽しんだとか。タモリさんはアマチュア無線技士の資格も持っているので、通信室は興味深いエリアだったのでしょう。

タモリさんも夢中

もともと「ブラタモリ」では、函館の古い市街地図で、海に向かって線路が延びている様子が気になって取材を始めたようです。

これは貨車を積み込む青函連絡船を知っていれば納得できるんですが、地図だけ見れば海の中に列車が潜るようにも思えて不思議だったのかもしれませんね。

記念館を訪れるなら

記念館を訪れるなら

記念館では実際の船に足を踏み入れて、連絡船の歴史や船の仕組みなどを知ることができます。

当時のままの操舵室、無線通信室を見学できるほか、甲板に出ると函館港を一望することができます。歴史を解説したパネルや、船の仕組みを模型や映像資料で紹介するコーナーもあります。

売店では、「青函連絡船チョロQ」などのオリジナルグッズも販売されています。お土産にぴったりですね!

施設名 函館市青函連絡船記念館摩周丸
住所 北海道函館市若松町12
アクセス JR函館駅から徒歩4分
※車の場合は「函館駅前広場駐車場」と函館駅西口前の「函館市若松町駐車場」 を利用(摩周丸入館で2時間無料)
入館料 【個人】一般500円/児童・生徒250円(各税込)
【団体(20人以上)】一般400円/児童・生徒200円(各税込)
営業時間 4月~10月/8:30~18:00(最終入館17時)
11月~3月/9:00~17:00(最終入館16時)
定休日 無休
電話番号 0138-27-2500
公式サイト http://mashumaru.com/

まとめ

北海道の開拓時代を支え、日本の高度経済成長期に物流の要となった青函連絡船。

長らく物流と旅客の多くを担ってきた船も、青函トンネルと航空機にその座を譲ることになりましたが、大切な歴史です。鉄道貨車をそのまま積み込むという発想で、荷物の積み替えの手間がなくなり、当時、物流の大革命とも言われました。

若い年代の方には生まれる前の出来事かもしれませんが、国鉄から連絡船への乗り継ぎを経験した世代もまだ多くいらっしゃるでしょう。記念館では、当時のことが懐かしく思い出されるかもしれませんね。

writerprof_minagawa
皆川 今日子
札幌在住。旅行誌を中心に、観光・グルメ系メディアにて執筆中。趣味は料理とゲーム。長年、掃除を苦手としていることで悩んでいたが、「掃除に必要な才能を生まれ持たなかった」と割り切ることで気が楽になった。